kiss me and touch me



昼間は見渡す限りの大海原だが、一度日が落ちれば海と空の境もわからないほどの深い闇がどこまでも続く。おまけに今夜に限っては星も見えない曇り空で、そこにはどんよりと重く立ちこめる雲がどこまでも続くのを想像させて気分も薄ら曇るばかりであった。

水温を攫って甲板に吹き付ける風は刃のように冷たい。甲板ですらこの寒さなのだから、見張り台の上はそれこそ氷のような風が肌を突きさすのに違いない。
波は穏やかで、船の揺れは少ない。だが凍えて固くなった指先はほぼ感覚がなく、梯子を登るには苦労を要した。腰に携えた瓶が揺れて柱に当たり、そのわずかな衝撃にすら背筋が震えた。慎重に一段一段上り、見張り台に顔を出せば、彼は待ち構えていたかのように視線をじっとこちらに向けていた。男が白い息を吐きながら梯子を上りきり、先に座っていた彼の隣に腰を下ろすまで、彼は男の安全を考えてか何も言葉を投げなかった。もとより彼は寡黙な性質であったが。


「なんだ、毛布なんて準備してるんじゃないですか。入れてください。指の感覚がない」

「……なんて奴だ。君は、馬鹿か」


呆れのため息を尊大に吐きつつも、フレデリックは腰を半端に上げて少し場所を移動した。ロックウェルがそれにあわせて寄り添ったのを確認すると、面倒くさそうに毛布をあげてもう一人分の空間を作った。


「寒っ! ちょっと、もう少し向こうに入ってくださいよ。左半身が寒いんですけど」

「勝手に上がってきておいて、信じられない奴だな。嫌だね」

「貴方が一人で寂しいだろうと思って来てあげたのに、なんて言い草だ」

「それが勝手だって言うんだよ」

「じゃぁ暖めあいましょう」

「気色悪いことを言うな」

「あー寒い。絶対風邪引く。誰のせいだろ」

「自分だろ!」


荒げたフレデリックの声が夜の静寂の中にこだまのように響き、白い息が闇間をふわりと漂った。それからロックウェルが息を吐きかけながら両手を擦り合わせるのを見て、フレデリックは何となしに双眼鏡を手にし、夜の向こうを覗きこむ。


「ああ、寒い……。何か見えます?」

「いや」


乾燥した冷たい空気の中に、芳醇なアルコールの匂いが広がる。勢い任せに抜いたコルク栓が宙を飛び、夜の中に見えなくなった。ロックウェルは酒瓶をフレデリックに突き付けた。


「あげる。これ、昨日立ち寄った街で買ったんだけど、体温まると思いますよ」


フレデリックは無表情に酒瓶を傾け、海賊らしく豪快に喉に流し込んだが、勢いのあまり背中を丸めてむせかえった。それを見て相方は楽しそうに笑う。


「いきなり飲むからですよ。それ、きついでしょ?」

「濃過ぎ……。先に言えよ。喉が焼ける」


ぐいと口元を手の甲で拭い、残った酒を相方に渡す。
ロックウェルは一口だけ飲んだ。どことなく不満げな様子でフレデリックが見つめていることに気がついて、不適当な爽やかな微笑みを返した。


「何、遠慮してんだ。君が持ってきた酒だろ。飲めよ」

「遠慮なんかしてないですよ」


粘着質に見つめる視線をはぐらかし、でもまああんまり飲まないのも飲ませた手前失礼にあたる、という律義な考えもあり、もう少しだけ、と瓶に口をつけた。
もともと酒はあまり強くない性質であった。だが彼は一度として酔っ払った姿を晒したことはない。定量をわきまえているし、周りの人間にしても彼の酔っ払った姿を面白半分でも見てみたいと思う人間などいないのだ。貴族連中としては彼にはいつでも他の女性グループを引き寄せる甘い蜜のような役割を担っていてほしかったし、海賊連中としては他の貴族出の者よりは比較的ざっくばらんに接してくる彼に親しみは感じていたものの、決定的な境界線は拭えなかった。
上空に浮かぶ分厚い雲の裏側で煌めいているはずの星を探しついでに瓶を斜め上に傾けた時、いきなり刺激の強い液体が喉に直接流れ込んできた。人為的に酒瓶を持ち上げられたのだ。


「ゲホッ……ちょっと、何するんですか! あぁ、こぼれたし!」

「悪い、悪い。ごめんな?」


思惑通り、ロックウェルがたっぷり酒を飲んでしまったことを知ってフレデリックは悪びれた風もなく誤り、満足げな微笑を浮かべた。彼も幾分酔っているらしかった。暗がりの中では顔色は確認できないが、彼の瞳がいつも以上に潤んでいるのはわかった。

喉から腹に流れ込んだ純度の高いアルコールの所為で、体が火照ってくる。こめかみのあたりも熱い。隣に座る彼の微笑みも相変わらず消えることはない。
酔いに任せて、というより、逆らい難い体の重心移動によってロックウェルはフレデリックの肩に頭を乗せた。決して許されると思ってやったわけではなく、単に椅子の背に寄りかかるのと同様の自然さでそれをやってのけたのだった。


「……ちょっと弱すぎやしないか?」

「別に、大して酔ってませんよ」


じゃあ人の肩を枕代わりにするな、とか、図々しい奴め、だとか、心ない台詞のいくつかは覚悟しており、でもその程度は風でも吹いたくらいに聞き流してしまおうと思っていたのだが、その後のフレデリックの行動はまるで予想外のものだった。
肩に乗ったロックウェルの頭に、更に寄りかかるようにして首を傾けてきたのだ。それでロックウェルの胸の鼓動は一気に速まり、酔いも一瞬にして醒めるほどであった。だが体はひどく緊張して、ピクリとも動かせなかった。ロックウェルの頬に当たっていたフレデリックの長い髪がさらさらと動いた。フレデリックは器用に頭を動かして、少しずつ頭の位置を変え、ロックウェルの首筋に鼻先を押し当てた。だがそれで終わりではなかった。鼻先の次には、唇らしきものが首筋に当たり、ロックウェルは彼の不思議な動きの最中ずっと目を見開いて微動だにしていなかったわけだが、そんなことお構いなしに、フレデリックの唇はロックウェルの細い顎に移動し、まるで当然の流れみたいに唇に重なった。ロックウェルの唇の形を確かめるみたいに彼自身の唇で軽く何度か噛んだ。そしてしばらくして満足がいったのか、今度はフレデリックがロックウェルの肩に頭を乗せた。そのまま動かなかった。
ロックウェルは目を瞬いた。
自分の唇を舌先で舐め、今起こったことを念入りに反芻した。
信じられないことに、たった今自分は、彼とキスをしていたのだ。


「今……キスした?」

「さあ……わかんないな」


眠たそうな声でそう返し、フレデリックは目を閉じたまま手探りで毛布をかぶりなおした。そして彼の膝辺りに落ちていた双眼鏡をそっと手で移動させた。自分の足にコツンと当たってとまったそれをロックウェルはじっと見つめた。フレデリックの体がゆっくりと上下に動きだし、彼は眠りに入ったらしかった。ロックウェルの肩と二の腕は、今やフレデリックの体温に同化していた。それはとても心地よかったが、あまりの心地よさに相変わらず心臓は早鐘を打っていて、隣で眠っている彼を起こしてしまわないか心配なほどであった。
全く、彼が隣にひっついていたんじゃ自分は眠れそうもない。
だが、恐らく見張り番交代とばかりに託されたのであろう双眼鏡を手にした時、ふとある考えに思い当った。

もしかして彼は自分が眠れなくなることまで計算済みであのような行動に至ったのではないか――。

そう考えると空恐ろしくなるのであるが、それはちっとも嫌な気分ではなく、ロックウェルは冷えた手を擦り合わせて双眼鏡を手に取ると熱心に遠くの水面を撥ねる魚などを探し始めるのだった。